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etc.blog

自分で考える色々を書いてます。

純粋はパフォーマンスとして成立していればそれでいい

 純粋を判断する基準てなんだろうね? って話。

 子どもが純粋な心を持っている。これはOK?

 では、嘘を吐く子どもは純粋な心を持っている。これはOK?

 たぶん、嘘を吐いたらアウトだろうね。言葉の問題になってきちゃうから先に前提を決めておくけど、今回は純粋とは何かとかが考えたいわけじゃないんだ。知るかよそんなことって感じ。

 言葉の意味を定義することとは別に、話を進めたいなら、何を持って純粋だと信じたい? って言い方が分かり易いかもしれない。

 そして、私が何を純粋だと思ったかを書きたいんだ。

 作品でありますよ。作品。今回は歌だったけどね。

 歌が純粋であるか。ラヴソングが純愛であるか。そんな感じ。

 そりゃ、不倫の歌だってあるだろうけど、そこに込められた気持ちってのは純粋でしょう? そろそろ言いたいことが伝わると思う。

 歌っている人間がどんな人か、なんて、あんまり関係ないんだ。一生懸命に(見えるパフォーマンスをして)純愛を歌っているなら、作品も歌手も純粋だなってことで良いじゃん。という話なのさ。

 少し飛躍があるような気もするけど、感覚的にはOK。パフォーマーって表現もできるから、表現者ってのはすごいよね。

 作家とかなら、覆面作家って方法もあるだろうけど、芸能人となると自分自身が作品化されていくから、得体がしれない。

 だから、あからさまにミスっちゃって不純が感じられるものは仕方ないけど、わざわざ見えないところまで疑って、パフォーマンスとして成立している純粋を壊すことはないんじゃないかなって思うの。

 こういうことを考えないで、純粋を信じられるって、自分が純粋であることを示すために抜群の効果があるパフォーマンスだね。結局受け手次第さ。

 

結局、同じようなことしか言えない気がする。

 色々と違うことを書こう、と思っていた。でも、あんまり違うことを書きたいなぁとも思えなかった。

 題材さえ変えれば、話題なんて溢れるほどにある。たぶん一生かかっても話し尽くすことはできないくらい。まあ、それもそれで楽しい。

 ただ、自分が本当に伝えたいことを伝えようとして、しかもそれを出来るだけストレートに伝えてみようって考えると、同じことの繰り返しになると思うんだ。

 それって、あんまり歓迎されないんじゃないかって思ってた。やっぱり、何か書いたら相手がいるわけだし、書き手は読み手を意識するでしょう?

 けど、それも悪くはないし、まあいっか。って感じになってきた。

 読み手を意識し過ぎて、伝えたいことが伝わらなくなってしまったら、本末転倒もいいところなんだからさ。

 だから、私は同じようなことをずっと話していくと思う。少なくとも、私の心が変わってしまわない限りはそうだろう。

 こんなことは、単純な話なんだ。

 もしも、これを読む人がいれば、そりゃそうだろう。いまさら何を言っているんだと思うだろう。私も、そう思っている。

 願わくば、ずっとそう思っていて欲しい。私もそう思っていたい。

閉ざされる感情と、心地良い冷たさ。

 笑い合った瞬間に、胸のうちで何かがパチリと噛み合って死んでいく感情がある。相手も自分も楽しそうにしているのに、確信してしまう。

 ――あ、この人は何も分かってくれない。

 相手が悪いわけじゃなくて、単純に相性が悪かった。気持ちを込めて一生懸命に話していたつもりなのに、結局そんなものは独り善がりでしかなかったんだよ、そんな風に聞こえるみたいだった。

 それが可笑しくて、私は笑っていたのかもしれない。

「じゃあ、相手に理解してもらえるように話せばいいじゃないか」

 そうじゃない。理解はしてもらえないんだ。恋が恋であると断言できるみたいに、分かり合えないことを断言できる。 

 急激に気持ちが冷めてしまう。その確信を得る前の状態には二度と戻れない。私は慎重に、決して相手に悟られることのないように感情を閉ざす。

 閉ざされた感情の前に残された孤独は、言い換えれば私の尊厳である。

 私を私足らしめる尊厳が、他人を排斥していく。そこには幸福感を見出すことさえできる。

 どうしようもなく、冷たい。アスファルトのように人工的な、心地の良い冷たさ。

きっと味方はいない。だけど、敵もいない。

 敵なんてどこにもいないんだ。攻撃的になって、自分の弱さを守ろうとしてるんだと思う。怯えるのは悪いことじゃないし、どうしようもなく何かが怖くなってしまうんだと思う。だから、自分を責めることはない。誰も責めたりなんてしない。

 敵なんてどこにもいなかった。そう気づく瞬間がある。その時には、胸が凍ってしまったみたいに辛くなるかもしれないけれど、しっかりと自分を確かめていると不思議と悲しくはないって分かると思う。

 フラットになるんだ。その瞬間に、初めてフラットになる。

 自分の立ち位置が分かる。自分が何を考え、何に怯えて、戦っていたのか。敵なんていない。目の前には、ごく普通の日常が広がっているだけ。自分を写している鏡さえそこにはないだろうね。

 視界に入るのは、自分以外の人たち。きっと色んな人がいる。目を瞑っている人もいれば、今までの自分のように存在しない何者かと戦っている人もいる。

 別に、その人たちを助けようなんて思う必要はない。純粋に、自分が見えたものを見ればいい。そうすれば、自分と他人との関係が見える。好きな人、嫌いな人。

 ここまでくれば、後は簡単だ。また自分だけの世界へ逆戻りしてしまわないように、他人と関わっていけばいい。仲良くしようとするんじゃない。相手を知ろうとするのが大切だ。知りさえすれば、自然と先のことは分かるようになる。

 肩の力を抜こう。気負う必要はない。確かに味方はいない。本当の独りぼっちかもしれない。だけど、また確かに敵もいないのだから。

人は独りで生きられる。

 自分がどれだけ暗い場所にいるのか。しっかり理解しておいた方がいい。そうでないと、その明るさが誰かに与えられているものだということを忘れてしまいそうになる。

 人が独りでは生きていけないなんていうのは嘘だ。人は独りで苦労することはあっても、生きていけなくなるほどに繊細じゃない。きっと死の恐怖が、生き長らえさせてくれるだろう。人は独りで生きられる。

 それは嫌だ、っていうか、誰かと一緒にいたい。

 本当はそう思っているんだと思う。でも、捻くれて理屈を捏ねることを覚えてしまった人間は素直になるのが苦手なんだ。正直に話をしていると恥ずかしくなる。だから、理屈っぽく人は独りで云々と言い始めたのさ。

 人を求めるのは、弱く、惨めで、時に醜い。碌でもないことだね。それが事実だと思う。けれど、どうにも嫌いではないらしいんだ。

過去はいつでも行方不明

 今日も、昨日も、一週間前も、一か月前も、一年前も、どれだけ振り返ってみたところで自分の姿なんて見えなかった。

 自分が進んできた足跡なんて雑踏の中に消えていて、感傷たっぷりに眺めることはできなかったんだ。だから、どうにか記憶を確かめて、大切なことだけを忘れないようにしようと思う。それでも失われてしまう大切な何かを、過去の自分が知っていたのならそれでいい。思い出すこともあるだろうから、気にしない方がいい。まるで、昔聞いた曲の歌詞みたいに、思い出そうとしなくても口ずさんでいる明日があるかもしれない。

 

全て忘れて

 純粋が足りない。純粋が足りていない。風の音を、聞くよりも、好きな歌手の息遣いに泣いてしまうような純粋さが全く足りていない。から泣けてしまう私が悲しくて嫌いになってしまう。けれど、少しだけ好きだって思える。のはきっと純粋がなくなってしまっていないからなんだと思う。好きを、見失っている私の中にも、好きがあるってことを、私自身が教えてくれる。から、ありがとう。と自分にも、それから好きなものにも言って、純粋を思い出したい。大丈夫だよ、なんて人に言えるような、穏やかに笑っていられるような私を見つけたい。