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自分で考える色々を書いてます。

消化というより既読を付けてるだけ

 本やゲームを、義務感で読んだり遊んだりしてない? 単なる作業になってない?

 それは、もちろん仕事で読まなくちゃいけない本を義務感で読むことはあるね。まあ、でも義務感が理由で読んだとしても、結果的に得るものがあったなんてことはよくあるよ。それはOKだよ。きっと良いことだって思うよ。

 義務感でも構わない。それがこなすだけの作業になっていなければそれがいいね。

 作品を消化するって表現が苦手だった。まるで嫌々やってるみたいに聞こえて、だったらやらなきゃいいのにって思ったから。でも、消化なら良かったんだ。

 消化すれば、栄養になるから。どんなものだって消化して栄養に変えられているんだから。結果としてはALL OKなのさ。まあ、楽しんだ方が良くないって思わなくなくもないけど、それ以上言うと押し付けになるから黙る。

 ただし、消費は嫌いだ。苦手だし嫌い。ただ、消費できるならなんだって良いんだって聞こえなくもない。

 そんなに熱くなるなよって言われるだろうさ。その主張も間違ってない。そういうスタンスの人だって勿論いるし、完全悪なんかじゃない。

 でも、嫌だ。そんなに熱くなる。自分がそんな風に使われたら嫌だし、相手がそう感じてしまうかもしれないって思うと申し訳ない気持ちになる。

 ただ既読を付けるみたいなノリで、人を使わないでいたい。

使い古された言葉だって、この瞬間は、確かに私の言葉なんだ。

 誰かが既に言ったことを繰り返すことは許されないの?

 どれだけ、自分が心の底から想った言葉であってもどこかの誰かがもう言ったからなんて、死ぬほどくだらない理由で無下にされていいはずない。

 「おはよう」なんて何億回繰り返された言葉だと思ってるんだろうね。「ありがとう」だって「ごめん」だって使い古されて手垢ににまみれて擦り減って、それでもまだ誰もが平然と使っているっていうのにさ。なんで同じことを言っちゃいけないんだ。説明して欲しい。仮に、アインシュタインも驚くような素晴らしく知性的で、驚愕の真実を交えた最高の説明を受けたって、納得なんてしてやらないけどね。

 それでもダメだって断言する度胸があるなら、DNAからやり直してね。きっと先人の言葉が君の体には無数に詰まっているだろうから。

 たとえ未確認生命体になったって許さない。

 共感だって言えば、素敵だ!素敵だ!って言いふらして回る癖に卑怯じゃないか。

 使い古された言葉を使うことが問題なんじゃない。使い古された言葉を、覚悟もなく使うやつが悪いんだ。そんなことも分からずに、全部を一纏めにして罵る奴らは悪いんだ。新言語でも作って、君だけのオリジナルで話してみればいいんだね。きっと、誰にも伝わらなくて、言葉を使う意味さえ分からなくなってしまうから。

 言葉は、それを使う人間まで含めて言葉なんだよ。

 自ら決断し捨てて来たものの中に幸福があるのならば、幸福なんて必要ない。

気づかないうちに奪われた憎しみを、もう1度取り戻したい。

 10代の憎しみはどこに行ってしまったのか。ただ過ごしているだけの毎日で、大した思想もなく、それにもかかわらず無際限に湧いてきたあの憎しみを取り戻したい。

 嫌いだ。全てが嫌いだと言えば、永久に憎しみを忘れないでいられるのか?

 楽しい日々に憧れて、駄々を捏ねるように不満を垂れ流すだけ。そこに憎しみはあるのか? 自分に対する憎しみだけで満足しているようでは、まだ憎しみが足りない。

 虚しさを感じてる人。冷静になって、感情を否定しているつもり? 感情を否定して、理想を求めている? 世界中の人間が哲学者になる日は来なくていい。

 明確な憎しみをエネルギーに変えられない人間は人間じゃなくて、きっと天使の皮を被った木偶。根拠のない愛を憎しみに変えられるのが天使。

 冷静になった子供が大人に成長したっていうなら、掻き集めた時代遅れの10代を引き連れて、いつか謀反を起こしてやろう。

 でも、10代なんて、みんなまだ多くのことを知らなくて、多くのことを知っているだけの大人たちに馬鹿にされながら、結局は失敗してしまう。

 そこで湧き出る純粋な憎しみをもう1度取り戻したい。大人が奪った憎しみをもう1度だけ取り戻したい。

たとえ希望がなくてもいいから。

 使い古された台詞がある。人のことを理解できない。理解し合うことはできない。だけど、理解しようと努力することはできる。

 知ったような言葉だ。でも、どうにもこれを否定することはできないんだ。

 こんなにも絶望的で前向きな言葉は、多くはない。基本的に、ただ前向きであることには落とし穴があるし、そこに潜んでいる多分なマイナスの可能性に対して盲目的になっていることが多いと感じる。

 だから、大抵は程よく諦めるんだ。傷ついてもそれが最小限で済むように。その方が理性的であるし、平和的だ。だから、こんなに明白な不可能に対して前向きである必要は欠片もない。可能性の面だけで考えれば、全くの無駄でしかない。

 それでも、否定する気にはならない。いや、否定はする。愚行でしかない。多分、そんなことをする奴は大概、馬鹿なんだ。

 例えば、仇討、復讐というものは愚行である。総合的にみて、プラスに働くことはない行為だろう。だから、否定はされるべきなんだ。

 ただ、そこまでして足掻いている人が好き。しっかりと現実の残酷さだとか、下手な希望の言葉に甘えることもなく、賢さや世間体とか、そんなことは抜きにして、自分の気持ちにどこまでも素直でいられる、そんな人を嫌いになることなどできない。どれだけ好いてみたところで助けになんてなれないけどね。

好きなものを好きなだけ

 お金がないと好きなものが買えない。これが問題。お金がないと好きでいられないって聞かれたら勿論ノーなんだけどさ。例えば好きなアーティストのCDとか発売したら欲しいじゃん? 当たり前だよね。だから、欲しい。お金がないから、手に入らない。

 まあ、お金を手に入れればいいんだ。働けば報酬はもらえる。そういう風に出来ている。この問題を解決する最も利口で簡単な解決法は労働。これは決定的。

 別にそんなことが言いたいわけじゃないんだけど、とりあえずね?

 仮に、好きなものを好きなだけ手に入れられるとしたら。夢みたいだけど、世界が孤立する。夢見る少年少女のままで自分だけの世界の人になる。誰もが遠い世界だ。

 何が言いたいかっていうと、好きなものを好きなだけ手に入れられないことで、得られている何かがあるってこと。それは価値の発生だろうね。当たり前の話だ。

 お金が価値になるって訳じゃない。金額=価値であるはずがない。そんな単純な仕組みがあっては困る。人間が単純化され過ぎて、もうロボットになってしまう。

 金額=価値でないから、結局は、お金を払う、意志表示=価値が社会で一番ポピュラーなものだったってことさ。

 少し前までの話。いや、今でもそうであるはずなんだけど、どっかでズレが発声しているみたいだから、ちょっと考えてみただけなんだ。

 無料で手に入ることに対する慣れ。これが怖いんだ。そりゃあ、製作者は作品を見て貰えれば嬉しいだろうけどさ。作品を見てやっているんだからお金を払わなくてもいいって話にはならないだろう? お金を払ってでも見たいって言ってくれる人のほうが嬉しいに決まっている。

 お金がない人が手に入れられない。そのジレンマは作品を受け取る側だけにあるものじゃないんだってば。制作者だってお金がない人でも、自分の作品が好きだって言ってくれる人には提供したいんだよ。

 だから、創作物に対してお金を払うって言うのは(創作物に限った話じゃないけど)、単なる経済的な仕組みじゃなくて思いやりの側面があると思うんだ。むしろそっちがメインだと思う。

 まあ、まとめれば簡単だよ。難しいこと考えなくて済むように、それこそ好きなものを好きなだけ手に入れられるくらい、好きなもののために働こうね。

 お金で愛を主張することも、別に悪いことじゃないんだよ。

心臓の鼓動じゃなくて、感情の起伏が生存証明

 生きていると死んでいるの二者択一だと思ってるなら、それは違うさ。

 人間は殆ど生きてなんかいないんだ。人生とか呼ばれている、心臓が動き始めて、疲れちゃって、もう1度心臓が止まってしまうまでの時間。その殆どを、死んでもいないし生きてもいない状態で過ごしている。そいつに気づいたほうがいいね。

 そうじゃないと、いつまで経っても生きられないよ? OK?

 さあ、気づいたら生き始めよう。生存を始めよう。

 難しく考えるなよ。さっきは脅かしちゃったけどさ、安心して。みんな心のどっかで生き方は知ってるのさ。感情の昂りが鍵になってる。

 音楽を聞いて、絵を観て、胸が熱くなっているのは生存のエネルギーが満ちているからさ。あの感覚を取り戻そうぜ。生きられもしない過ごし方で時間を無為にするの? 勿体無いな。その時間にどれだけの可能性が詰まっているのか知ってる? 素晴らしいものだぜ。

 さあさ、生存を始めよう。