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自分で考える色々を書いてます。

苦境というアドバンテージ

 愛にしか溢れていないのも疲れる。幸せな環境下では能力を全く発揮できないタイプの人もいるんだ。幸せは曖昧過ぎて、自信がなくなるからさ。

 できるだけ、辛い目にあっておいたほうが生きやすい。

 敵意こそがエネルギー。“世界を全て敵に回しても”なんて、よくある話で、あれが例として分かり易い。あれが、愛の物語だったとしよう。そして、もしも“世界の全てが味方になってしまったら”と考えてみるといい。

 ほら、二人の間にあった愛は、すぐに確証を失うよ。

 辛い目にあっているというのは、アドバンテージなんだ。面白さしかないじゃないか。敵を倒すと言う明確な目的のために、存分力を振るえば良い。

 

白む影の輪郭を、夢見心地でなぞるだけ

 人の気配が身近にあって、あんなにも巨大な空間が真っ暗になる。暗闇の中でときめいている人たちが、身を捩る微かな音が聞こえてくる。仄かに灯る非常灯や、独特の椅子の固さを背中に感じて。スクリーンに映し出される光。

 映画を観に行くのは好きだけど、どちらかと言えば映画館を観に行っている。映画鑑賞じゃなくて、映画館鑑賞。

 素敵でしかない。たぶん、上映中のシアターの扉を開ければ、そこは映画の物語に繋がっていて、私たちも登場人物の仲間に入れるんじゃないかな。

 映画館に頭から足の先まで溶け込んで、一時の感動を、あるいは興奮を手に入れる。それは全く夢なんかじゃなくて、夢よりも魅力的な現実なんだ。

 私が好きな席は、最後列。どんな人かも分からない、ただひたすらにシルエットでしかない人たちが、夢を見ているのを確かめながら自分も、映画を、映画館を観る。そんな時間が気に入ってる。

どんなことでも自分の所為

  例えば仕事上のミスも自分の所為だし、世界平和が成し遂げられたならそれも自分の所為。過剰な言い分なんかじゃなくて、それくらい考えている人がいいね。

 勘違いしないで欲しいけど、全部が全部自分だけの力でどうにかできると思えっていう意味じゃない。どんなことにでも、自分は関わりを持っているんだってことを自覚しようよって意味だからね。OK? もちろん、分かっているだろうけどさ。

 関係ないから、他人任せ、私の所為じゃない、なんて言わちゃうと疲れるでしょ? 自分が考えているのが馬鹿みたいに思えるでしょう。最後には、本当に自分の責任だとしても、他人の所為にしてみたりしてさ。笑えてくるね。ジョークみたいだ。

 別にそれも処世術ってやつだろうさ。勝手にやるといい。

 ただし、最初に言ったみたいな、世界的ハッピーが起きたような時に、心の底から喜ぶべきなのはどう考えたって、関わりを自覚していた人間だ。

 全部自分で抱え込んで、心が折れてしまいそうになっても、諦められないような賢くない生き方に憧れるね。

ロボットも人間も同じだって言ったら?

 人は人間を特別視し過ぎていると思う。

 ロボットは人間になり得るか?という質問は正直無意味だ。相手をロボットであると決めつけている内はロボットは人間になり得ないでしょうね。

 ていうか、人間が何であるのかをまず明瞭にして欲しい。私が人間って何?って聞かれたらさっぱり分からない自信がある。体組織が分かったからってなんだ。脳機能が判明したからってなんなのだ。

 ロボットが人間になる日が来るとしたら、それはロボットと人間の境界を失くした時。あるいは、人間がロボットになった時。いたって単純な話だね。

信じている人の言葉は痛いほど伝わるから

 自分の言葉を信じることができなくなってしまった人達に届けばいいと思う。

 性善説とか性悪説とか、難しいことが分かってしまう程に私は賢い人じゃないけれど、自分の気持ちが少しでも誰かに伝えられていることが分かれば嬉しいことくらいは分かるんだ。誰かが好きだと言ってくれれば、それも嬉しいんだ。

 でも、誰からでも言われたいわけじゃなくて、自分と真剣に向き合ってくれる人とか、自分に近しいものを感じる人に言われると嬉しい。それは多分、世界でもトップクラスに我が儘なことなんだけど、それでも欲しい。

 自分に向けて言って貰うなんて、あんまりにも我が儘で怒られてしまうかもしれないけど、それなら自分に向けてじゃなくてもいいんだ。誰かが別の誰かに、或いは自分自身に向けて呟いただけの言葉でも、形になって見つけられるなら、それでいい。

 そんな嬉しい言葉が、どこにあるのかは分からない。道端に落ちているのかもしれないし、思いがけない人が持っているのかもしれない。可能性は尽きない。

 気持ちの込められた言葉であれば、可能性は尽きない。

 誰かに届けばいいと思う。まずは私自身に届けばいいと思う。私自身が欲しい言葉なら、誰かが密かに待っている言葉である可能性はちょっとくらい高くなるはずだから。

 うち捨てるように言葉を使っちゃいけないんだ。

 すごく身近な存在だから、つい忘れてしまいがちになるけど、私は心からの言葉を使えたらいいなって思う。

客観なんて消えてなくなればいい。

 1つの問題を話して考えるなら、そこには当事者以外いないだろうに客観的になる必要性なんてないんじゃないのかな。

 独り善がりにならないためなら、相手の立場に立って考えればいいじゃない。わざわざ関わりのない第三者視点に立たなくてもいい。ていうか、両者の意見が対立している状態で、中立の第三者視点の考えができるはずもない。第三者が問題の解決に関わっている時点で、部外者ではなく当事者なんだから客観性は保証されない。

 それなのに、客観的っていう立場はやたらと優位性を得ているみたいで、物事を客観的に考えるのがベターな風潮がある気がしてる。

 どうせなら、客観なんて得体の知れないものに頼らないで主観で喋ればいいのに。相手の主観を想像してみればいいのに。だから、客観なんて消えてしまえばいい。

相手が訴えていることだけが相手の全てではない。

 つまり、思いやりの話。という結論。

 

 誰かが「こうだよね?」って言った内容が相手の考えている全てであることは殆どない。「(この状況で、今起きている問題に対して、このような立場を取った場合)こうだよね?」くらい情報は隠れている。

 当たり前の話だけど、熱を入れて話し込んでいると忘れがち。

 相手がどういう人間なのかを想像することが大切。

 逆に自分が何かを主張するなら、相手に自分の主張が唯一の正解だというわけではなく、個人的な見解であることを示しておくと会話が円滑に進む。

 

 というのが、一般的で優しいやり方。

 ただし、そんなまどろっこしいことをしていられない場合があるんだ。たとえ、自分が唯一の正解でなかったとしても、絶対だと思って話すくらいの熱意がなくては心を動かすことなんてできない。

 相手のことを考えて、相手が傷つくかもしれない不快に思うかもしれない。その可能性を考慮する。そして、自分の主張が絶対ではないことを把握し、それでも自分はそれを主張しようという熱を持っているのか確認する。

 その熱を感じたなら、覚悟しろ。全てのリスクを抱え込んで、声高らかに主張すれば良い。それだけの話だ。それができない程度なら、主張なんてしなければいいよ。